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東京高等裁判所 昭和30年(ナ)13号 判決 1956年10月19日

原告 加藤亀吉

被告 神奈川県選挙管理委員会

主文

原告の請求はこれを棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一、原告の請求の趣旨及び原因並びに被告の主張に対する反論。

原告訴訟代理人は、昭和三十年二月十一日執行の神奈川県三浦市市長選挙の効力に関し原告がした異議申立につき同年三月十五日三浦市選挙管理委員会がした申立却下の決定及び右決定に対し原告がした訴願につき同年七月一日被告がした訴願棄却の裁決はいずれもこれを取り消す、右選挙はこれを無効とする、訴訟費用は被告の負担とするとの判決を求め、その請求の原因及び被告の主張に対する反論として次のとおり陳述した。

一、原告は昭和三十年二月十一日執行の神奈川県三浦市市長選挙の選挙人である。

二、右選挙は三浦市市制実施当初の市長選挙であり、同年一月二十六日告示の上同年二月十一日執行されたが、当初のその候補者及びその所属党派は次のとおりであつた(公職選挙法第百七十三条第百七十四条による掲示掲載の順序による)。

1  無所属 佐藤準一郎

2  同   川崎喜太郎

3  共産党 岩野益雄

4  無所属 松崎定治

しかるに右候補者岩野益雄は選挙の前日である同年二月十日候補者たることを辞したので、その余の三名の候補者で選挙の結果川崎喜太郎が最高点を得て当選人となり、松崎定治は次点、佐藤準一郎は三位となつた。

三、右選挙にあたり、その選挙事務管理執行の任にある三浦市選挙管理委員会は、三浦市内を十五投票区に分ち、その各投票区に一カ所ずつ公職選挙法第百七十三条第百七十四条による右各候補者の氏名及び党派別の掲示をしたが、これにつき同委員会は右法条に違反する次の如き重大なかしを現出せしめた。

(一)  同年二月十日午前十時ごろ共産党所属の岩野候補が立候補を辞退する旨届出たので、同委員会が同候補の氏名党派別の記載を右掲示から抹消するにあたり、故意又は重大な過失により、岩野の氏名党派別を抹消せず、同上掲示中の候補者松崎定治の氏名党派別を朱線を引いて抹消し、その下部に辞退と明記した。その詳細は次のとおりである。

(イ) 右抹消は選挙の前日である同月十日午前十一時ごろなされ、その日の午后一時ごろまでそのままの状態で掲示を続けた(なお日の出掲示場については(二)のとおり)。

(ロ) 抹消された掲示は三浦市内十五ケ所のうち旧三崎町内の七ケ所すなわち花暮、日の出、諏訪、城ケ島、六合、原、小網代の各掲示であり、このうち花暮、日の出及び諏訪の三ケ所においてとくに顕著である。

(ハ) 同委員会は右抹消事務を実際に担当させるのに文字を十分に解しない労務者宮沢金吉一人をもつてした。

(二)  右抹消の誤りが発見されるや同委員会は即日これを訂正するにあたり、またはなはだしく無責任軽率な措置をとつた。すなわち正しい掲示と交換しかつ外部路上に掲示されるものであるから糊等をもつて密着するように貼るべきであるのに、松崎候補の氏名等を朱線で抹消してある上に、たんに松崎候補の氏名等を記載した紙片を画鋲で四すみを留めただけであつた。同日は近来珍らしい強風であつたためこの風にあおられてこの訂正掲示は大半剥離され訂正の目的を達し難い程度となり、日の出掲示場の如きは翌日の選挙当日の正午ごろまで先きに抹消されたままの状態を表示していたのである。

(三)  もともとこのような重要な掲示をするにあたつてはとくに剥離等しないように特別の掲示板等を用意すべきものであるのに、氏名記載の用紙より小さい既設の一般掲示板を用い、あるいは設備外の民家等の板塀外壁等を利用して掲示したに過ぎない。

四、右のような選挙の規定違反は本件選挙の結果に異動をおよぼす虞があるものである。

(一)  本件選挙で次点となつた松崎定治は三浦市の市制実施二年程前の旧三崎町長であつたところ、そのころ衆議院議員に立候補のため辞任したものであり、市制施行にあたつては各方面の要望をになつて市制を実施させるにいたつた功労者であり、選挙人の信望も一番厚かつたものであるから、当選人となるべき条件は十分具備していたのである。

(二)  衆参両議員の選挙のように大きな選挙と異なり、地方の小さな市の市長選挙のようなものは、政党や政綱のいかんよりは人物を中心として選挙される傾向にあることは社会常識というべく、また候補者の起居進退は電波の如く迅速敏感に選挙人に伝わるものであり、これは公職選挙法第三十三条第八項第三号の選挙の期日の告示及び同法第百七十四条第一項の候補者の氏名等の掲示の各期間が他の選挙に比較して最も短いことから考えても明白である。

(三)  本件の掲示に関するかしは松崎候補が全く立候補を断念辞退した感じを持たせるものであり、これは所属政党又は氏名を誤記した如く立候補継続を疑わせないものと異なり、その選挙人に与える影響は大である。ことに抹殺事故の発生した場所は本件選挙の中心ともなる市内であり、最も長時間にわたつて抹殺の事実が表現されていた日の出の掲示は松崎候補方と相去ることわずか四十九間、その足もとともいうべき場所であるにおいては、そのかしの時間的場所的長短大小を問わず、その影響は深刻である。

(四)  本件選挙における選挙人の総数は二〇、五七七、その投票数は一六、二五八、その有効投票は一六、一七八(無効八〇)、候補者各自の得票数は当選人川崎喜太郎六、五六九、次点松崎定治五、六五六、三位佐藤準一郎三、九五三であつた。

(五)  以上の次第であるから、本来ならば当然当選人となるべき条件を具備した松崎候補が次点となつたのは一に市選挙管理委員会の前記のような選挙の規定違反の結果といわざるを得ず、少くともこれらのかしなかりせば現実の結果と異なる結果を生じたかも知れない場合に該当する。

五、よつて原告は昭和三十年二月十四日三浦市選挙管理委員会に対して右選挙は無効とすべきものとして異議を申立てたところ、同年三月十五日同委員会はこれを却下する旨の決定をしたので、さらに原告は同年四月一日被告に対し右決定を不服として訴願したところ被告は同年七月一日訴願棄却の裁決をしたから、ここに本訴請求に及ぶ次第である。

六、仮り本件掲示における誤抹の時間及び場所が被告の主張どおりであるとしても、本件の規定違反はなお選挙の結果に異動を及ぼす虞ある場合に該当する。

(一)  本件の規定違反は決して軽微のものでなく、それ自体選挙の自由公正を害するものである。氏名の告示は一般の選挙を通じて選挙の基本に関する重大事項である。法は一般の選挙施行にあたりその自由公正を期するため、ラジオの放送、新聞広告、選挙公報の掲載等とともに氏名の告示を要求しているところ、他の大部分の事項は一時的のものであるのに、氏名の告示に限り、各選挙につき期間は異なるが相当の日時継続して掲示すべきことを命じ、しかもその掲示の方法を具体的に取りきめて摘示していることは、このことの重要性をあらわすものであり、この規定の違反は選挙の管理執行上ほとんど最大唯一のかしといわなければならない。本件誤抹の結果、選挙人中数多のものが松崎候補の氏名が抹消された事実を現認し、あるいは現認した者から伝聞し、同候補が辞任したものと誤信したと推定するのが相当である。投票の秘密は憲法の保障するところであり、その調査は絶対に不可能であることからすればなおさらである。従つてたんに誤抹が短時間少数箇所であつたというだけで、投票を他の候補にし、あるいは棄権したものが相当数なかつたとは保し難いといわねばならず、その結果はただに当選者次点者の得票数のみならず、広く全候補者の得票数に影響を及ぼしたものというべく、結局これなかりせば現実の結果と異なる結果を生じたかも知れない場合に該当する。

(二)  しかのみならず原告が本件誤抹の事実を発見した際、即時三浦市選挙管理委員会に訂正方及び誤抹の事実を選挙人に徹底させるよう要望し、しかも責任者はこれを引受けておりながら、同委員会はついに方法がないとして本件の訂正以外なんらの方法も講じなかつたのである。しかしラジオ放送その他の機能を利用すれば容易にこれを徹底せしめ得たはずである。例えば棄権防止の宣伝車を利用して「岩野候補は辞任したが他の候補者には異動がない」趣旨の表示をすれば合法的にしかも簡易効果的に誤抹の事実を選挙人に徹底させることができたものである。それにもかかわらずあえてこれをしなかつたのは故意に重大な規定違反を敢行したものというべく、それはまた選挙の自由公正を著しく欠いたことにもなるのである。

七、被告がその答弁において引用する裁決書の理由に対しては次のように主張する。

(一)  裁決の理由(3)は本件掲示場附近の通行者が多数であつたとは認められないというが、選挙数カ月後の通行人の調査を根拠とするもので牽強附会むしろ荒唐無稽ともいうべきものである。

(二)  同(4)について、当時岩野候補の辞任が承知されていたこと、消防署内では誤抹であることが信じられていたということから、抹消された掲示を現認した選挙人の全部がこれを誤抹であると見てとつたとは断言できず、これまた牽強附会の議論というべきである。

(三)  同(5)の主張にいたつては選挙の実状を度外視した計算上の結論に過ぎず、また得票数の差の如きは当選の効力に関する問題であつて本件のような選挙の効力に関する問題ではない。

八、結局本件の選挙には選挙の自由公正を害する重大な規定の違反があるのであつて、もし本件選挙が合法適正に行われたならばその結果は現実に生じたところと異なつた結果を生じたかも知れないという可能性が大である。公職選挙法第二百五条第一項に「選挙の結果に異動を及ぼす虞ある場合」とは確実であることを要せず、選挙の結果にあるいは違つた結果を生じたかも知れぬ場合をいうと解されるのであるから、仮りに被告の主張に百歩を譲つても、本件は正に右条項に該当するものである。

第二、被告の答弁及び主張

被告訴訟代理人は主文同旨の判決を求め、答弁及び主張として次のとおり陳述した。

一、原告主張事実中第一の一、二の各事実、三の冒頭のうち三浦市選挙管理委員会が三浦市内を十五投票区に分ち各投票区に一カ所ずつ市長候補者である松崎定治外三名の氏名所属党派別を掲示したこと、同(一)のうち同年二月十日共産党所属の候補者岩野益雄が候補を辞退する旨届出たので同委員会がその氏名党派別を同上掲示より抹消するにあたり、岩野候補の氏名等を抹消すべきにこれを抹消せずして同上掲示中の候補者松崎定治の氏名党派別を朱線を引いて抹消しかつ辞退と記載したこと、その誤抹は日の出、花暮二カ所の掲示にかかること、同委員会が右抹消事務を実際に担当させたのは文字を十分に解しない労務者宮沢金吉であること、同(三)のうち候補者の氏名党派別の掲示をするにあたり、日の出掲示場においては氏名等記載の用紙より小さい既設の一般掲示板を用いたこと、同四の(一)のうち松崎定治が三浦市制実施二年程前の旧三崎町長であつたところそのころ衆議院議員に立候補のため辞任したものであること、同(四)の事実、同五の事実はいずれもこれを認めるが、その余の事実はすべて否認する。

二、本件の選挙につき三浦市選挙管理委員会の選挙管理執行に重大なかしがありそれが選挙の結果に異動を及ぼす虞れがあるとの事実は全面的に否定せらるべきもので、その理由の詳細は別紙裁決書の理由に記載するとおりであるからこれを引用する。

第三、立証<省略>

理由

第一、当事者間に争ない本件の前提たる事実。

昭和三十年二月十一日執行の神奈川県三浦市長選挙において原告がその選挙人であること、右選挙の当初の候補者及びその党派別は、無所属佐藤準一郎、同川崎喜太郎、日本共産党岩野益雄、無所属松崎定治の四名であつたところ、候補者岩野が選挙の前日たる二月十日候補者たることを辞したのでその余の三名で当落を争い、選挙の結果川崎が最高点を得て当選人となり、松崎は次点、佐藤は三位となつたこと、右選挙にあたりその管理執行の任にある三浦市選挙管理委員会(以下市委員会という)は三浦市内を十五投票区に分ち、各投票区に一カ所ずつ公職選挙法第百七十三条第百七十四条による右各候補者の氏名及び党派別の掲示をしたことはすべて当事者間に争ない。

第二、岩野候補の辞任に伴う掲示の抹消についての市委員会のあやまりについて。

一、前記のように同年二月十日岩野候補が立候補を辞したのでこれに伴い、市委員会において右掲示から同候補者の氏名及び党派別を抹消するにあたり、旧三崎町内七カ所の掲示のうち花暮及び日の出の二ケ所の掲示については岩野の氏名等を抹消せず同掲示中候補者松崎定治の氏名党派別を朱線を引いて抹消し、その下部に辞退と朱書したこと、右抹消の事務は市委員会において文字をよく解しない労務者宮沢金吉をしてなさしめたものであることは当事者間に争ない。

二、原告は右掲示抹消のあやまりは右花暮、日の出の二カ所に止まらず、旧三崎町内の七カ所すなわち花暮(はなぐれ)、日の出、諏訪、城ケ島(じようがしま)、六合(むつあい)、原、小網代(こあじろ)の各掲示であり、そのうち右花暮、日の出及び諏訪において特に顕著であると主張するけれども、右花暮、日の出以外の五カ所についてはこれを認めるべきなんら的確な証拠がない。原告が右七ケ所全部と主張する根拠は、後に認定するように市委員会が抹消のあやまりについて情報を受けてから市委員会の鈴木事務局長らがその訂正のため市委員会の事務所(市役所内)を出るとき全七カ所分のための用紙をもつて出発したことにあり、また諏訪が特に顕著であるというのは当日午後鈴木事務局長が尾瀬戸市委員長とともに松崎の選挙事務所に赴いたとき同人が諏訪の掲示をはり替えた旨告げたことに発するものであることは原告本人尋問の結果から明らかであるが、後記のとおり市委員会が宮沢を掲示抹消にやつたあとその抹消のあやまりを指摘されたが、その時はまだどこどこの抹消をあやまつたか判明せず、鈴木局長らは全掲示箇所の訂正に必要なだけの用紙をもつて出発したのであり、また諏訪については鈴木事務局長らが他の箇所を抹消訂正に廻つた末諏訪の掲示場に到つたとき、たまたまその掲示が一部破損していたため全部を取りかえたものであり、抹消にあやまりがあつたためでないことが明らかであるから、もとより原告主張事実認定の根拠とするには足りない。かえつて他の箇所についてはなんらそのことのなかつたことは後記認定のとおりである。

三、市委員会の命じた労務者宮沢が花暮及び日の出の二ケ所の掲示につきその抹消をあやまつた後、同日中両所におけるあやまりがいずれも訂正されたことは本件口頭弁論の全趣旨にてらし当事者間に争ないものと認むべきところ(但し日の出の掲示についてはさらに後記四の問題を含む)、そのあやまり抹消されてから正しく訂正されるまでの時間、すなわち掲示における抹消のあやまりがあやまりのまま放置されていた時間については争があるから、以下これについて検討する。

(一)  市委員会の作成部分の成立につき争なくその余の部分は証人鈴木慶三の証言により成立を認めるべき乙第八号証、成立に争ない乙第十号証の六、同号証の九に証人鈴木慶三、同石渡秀吉、同宮沢金吉の各証言をあわせれば次のように認めることができる。候補者岩野益雄が運動員石渡秀吉を通じて市委員会に立候補辞退届を提出し、鈴木事務局長がこれを受付けたのは二月十日午前十一時七分ごろであり、鈴木事務局長は右石渡に対し選挙のための標旗及び腕章を返還するよう要求したので石渡はいつたん岩野候補方に帰り、約二十分を費して腕章を探したが全部発見できず、標旗だけを持つて再び市委員会に引返したが、その途中の行程に四、五分かかつたので、同人が二度目に市委員会に到着したのは十一時三十分ごろと認めるのを相当とする(同証人はこれを十一時二十分前後というがその所要時間にくらべて早きに失し採用できない)。

一方鈴木事務局長は届出を受付けた後直ちに掲示抹消の準備をはじめ、労務者宮沢に各掲示中岩野の氏名等を抹消することを命ずるとともに、その抹消の仕方、掲示場の所在等を教えた上右石渡が二度目に市委員会に到着した後これを出発せしめた。宮沢は自転車で出かけたが出発前自転車の鍵があかなかつたため約五分程を費し、小公園を通つて花暮掲示場に達したが、市役所から同所までの所要時間通常約二分のところ途中路上混雑のため約三分を要した。同所であやまつて松崎候補の氏名等を朱抹して辞退と書き込んだがその所要時間一分、直ちに日の出掲示場に赴き同様あやまり抹消し、城カ島へ渡るべく渡船場まで引き返した。花暮よりそこまでの所要時間は五分である。渡船場でははじめ船が見えず、約二三分してから城カ島と三崎の中間に此方へ来る渡船を見、船が三崎の岸に着くか着かないかのころ正午のサイレンが鳴つたという順序である。城カ島と三崎間の渡船の所要時間は検証の結果によれば約四分であるから、以上の事実関係にもとずいて逆算すれば、いちおう宮沢が二カ所の抹消を終えて渡船場に到着したのは十一時五十四、五分ごろで、これからさかのぼつて日の出の抹消は十一時五十二、三分ごろ、花暮のそれは十一時五十分ごろとなる筋合であり、被告の引用する被告の裁決における認定と一致するが、これらの推算は少しく理づめに過ぎるのみでなく他の証拠とも必ずしも一致しないところであるから、これのみをもつて右各抹消時刻を算定するのは早計である。

右証人宮沢金吉は花暮の抹消は十一時四十分ごろと供述しており、岩野候補の辞退届の受理からそれ以後の順序を考えると宮沢の出発は十一時三十五分ごろと解せられるから、花暮の抹消が十一時四十分ごろとする右供述はあながち排斥し難いものがある。また後記(二)のとおり日の出についてはその抹消のあやまりが同掲示場正面向う側に店のある木村信義に発見され、同人から松崎候補の選挙事務所に電話で報告され、松崎の選挙事務長たる原告は人を派してこれを確めさせた上電話で市委員会に抗議を申し込み、市委員会ははじめてこれを知つて鈴木事務局長は直ちに訂正用紙の準備にかかり、また別にあつた予備の氏名掲示の紙を市吏員鈴木益司に持たせて日の出の掲示場へ訂正にやり、その訂正の時刻がおうよそ十二時二、三分ごろと認められ、右乙第十号証の九によれば鈴木事務局長は神奈川県選挙管理委員会(以下県委員会という)では、宮沢が出発してから十五分位してから松崎事務所からの電話があり、電話の後鈴木益司が日の出の訂正に出発するまで七、八分かかつたと供述している。これらの事情をあわせれば日の出の掲示場の抹消のあやまりが放置された時間を被告が引用する裁決の認定のように十一時五十三分ごろから十二時三分までの約十分間とするのは短きに過ぎるものと解され、結局花暮、日の出ともその抹消の時刻はこれより十分ぐらいずつ繰り上げられて花暮は十一時四十分ごろ、日の出は十一時四十三分ごろと認めるのが事態の真実に合致するものと解すべきである。

(二)  次に成立に争ない乙第十号証の十に証人木村信義、同松崎長司、同鈴木昭次、同鈴木益司、同鈴木慶三の各証言に原告本人尋問の結果をあわせれば次の事実を認めることができる。宮沢が前記のように日の出の掲示をあやまり抹消したあと、同所正面向う側に店を有する木村信義がこれを発見し、そのことを電話で松崎の選挙事務所に伝え、同候補の選挙事務長であつた原告は直ちに事務所の松崎長司に見て来ることを命じ、同人は歩いて掲示場にいたりー松崎方事務所と日の出掲示場との距離は約五十五間であること検証の結果明らかである―これを現認し帰つて原告に報告したので原告は直ちに市委員会に対し電話で抗議するとともに自ら市委員会に赴いてさらに厳重な抗議を申し入れた。市委員会では原告からの電話でそのあやまりを知り、市吏員鈴木昭次が昼食で同方面の自宅に帰るのに託して日の出の掲示場の現認及びその報告方を求め、同人は同所でこれを現認したのでその旨直ちに電話で鈴木局長に復命した。その間鈴木事務局長は自ら模造紙を出して訂正のための掲示を作つたが、それでは時間がかかるので取りあえず前に作成してあつた予備の掲示一枚を出して岩野の氏名等を朱抹の上市吏員鈴木益司にたのんで同所に赴かしめ鈴木益司は自転車でここに行き、さきの掲示の上にこれを貼付して市役所に帰つたという順序である。そしてその時間の点については右乙第十号証の九によれば鈴木局長は、松崎の事務所から最初電話があつてあやまりを知つたのは宮沢出発後十五分くらい、さらにそれより七、八分して鈴木益司を訂正に赴かしめたとしており、乙第十号証の十及び証人木村信義の証言によれば、当日十二時近くなつて市委員会から訂正の掲示をはりに来、その作業中かはり終えたところに正午のサイレンが鳴つたとしていることから考えて右あやまりを訂正したのは十二時二、三分ごろとみるのが相当である。この点につき証人鈴木慶三は当裁判所では宮沢出発後三、四分して電話あり、すぐ鈴木益司を発たしめたと供述するが、採用できない。証人鈴木昭次は同人が鈴木局長から日の出の掲示の情況確認を命ぜられて出発したのは正午のサイレン後五分位してからと供述するが、爾余の証拠と符合せず直ちに採用し難い。証人鈴木益司は県委員会では同人が日の出の掲示場を訂正し終えたのは十二時前であり、その後鈴木局長とともに他の五カ所を見廻つて市役所に帰着したのは十二時十五分ごろとしているが(乙第一〇号証の八)全体として時刻のずれがあると認められ採用し難い。

(三)  証人石井巖の証言により同人らが県委員会の訴願審査にあたり実地に調査して作成したものであること明かな乙第三号証(同証中に記載された各所要時間は原告においてこれを争う趣旨と解するが、今これを疑うべき特段の資料なく、その結果はおうむね間違いないものと認められる)、同じく各掲示場の所在及び順路を三浦市の地図上に記載したものであること明らかな乙第四号証、証人鈴木益司、同鈴木慶三、同浜田一雄の各証言をあわせると次の事実を認めることができる。鈴木事務局長は鈴木益司を日の出の掲示場へ派遣したあと、引き続きその余の全掲示場につきあやまりあるやも知れずとしてその訂正の用意をし、松崎の氏名を抹消した上に貼るべく同人一名分だけの氏名党派別を書いた紙六枚と別に全候補者の氏名等を記載し岩野の分を朱抹したもの一枚とをもつて、日の出の訂正を終えて帰着した鈴木益司及び城カ島の投票所の準備及びそこの掲示場の分を託した浜田一雄とともに、市水道課のオート三輪車で市委員会事務所を出発し、日の出掲示場の前をとおつて渡船場で浜田をおろし、花暮掲示場にいたり、抹消箇所に用意の松崎の氏名等の紙をはつて訂正した上、順次六合、原、小網代の各掲示場を見廻つたがいずれもまだなんの抹消もなかつたのでそれぞれ岩野の氏名等を朱抹し、引返して諏訪掲示場にいたつたが、同所もまだ抹消前ではあつたが一部掲示が破損していたので用意の全部の氏名の分ととりかえて貼付し市役所に帰着した。一方城カ島の掲示(小学校のところ)も異状がなく、浜田において岩野の氏名等を朱抹したという次第である。もつともこの各掲示場をめぐつた順序につき証人浜田は諏訪から花暮を経て渡船場に行つたとし、証人鈴木慶三は諏訪が最後といい、証人鈴木益司はそのいずれか記憶しないというが、諏訪では全部をはりかえており、また他の箇所に行くに先立ち抹消のあやまりの不安を抱いたままあやまりのない掲示を最初にはりかえるというより、他の箇所を廻つたあとで最後にあらかじめ用意の紙が余るので抹消のあやまりはなかつたがはりかえたのだ、とする方がより自然である。

そしてこれらの時間の点については、はじめ鈴木益司が日の出の訂正に出発してから市役所に帰るまで約十二分を要したことは証人鈴木益司の証言により明らかで、その訂正の時刻は十二時二、三分ごろとみるべきこと前記のとおりであり、鈴木益司が日の出での訂正後小公園へ廻り道をして市役所に帰るに要した時間が七、八分なることは同証人の証言により明らかで、同区間の自転車による所要時間が七分であることは乙第三号証によつても同様である。次に市役所から日の出、渡船場経由花暮までオート三輪車の所要時間は約三分、市役所を出て右各掲示場を廻り市役所に帰着する全行程のそれは抹消時間を含めて約三十一分なること右乙第三号証によつて肯認すべきであるから、これらをあわせ考えれば鈴木事務局長らの市役所出発はおよそ十二時十分ごろ、花暮の訂正は十二時十三分ごろ、市役所への帰着はおよそ十二時四十一分ごろであつたと認めるのを相当とする。証人鈴木慶三は花暮の訂正は十一時四十分ごろ、市役所への帰着は十二時ちよつと過ぎと供述しているが、同人の県委員会における供述たる右乙第十号証の九その他の証拠とくらべて採用し難い。

(四)  以上の認定を他の観点から吟味するに、成立に争ない乙第十号証の三及び証人和田松次の証言によれば、三浦市消防署員である右和田が二月十日午前十一時から正午までの立番中赤インキと筆をもつた男が花暮掲示場に来たことを目撃しており、その時刻は不正確ながら十一時半ごろであつたとし、立番中訂正のことは見ていないことが認められ、前記認定と符合する。

成立に争ない乙第十号証の四によれば同消防署司令補橋村勝次郎は二月十日十二時まで二階で執務、正午のサイレンとともに階下休憩室に入り食事をしかけたところ、署員から掲示中松崎の氏名が抹消してあるが間違いではないかといわれ、食事をやめて掲示場を見て間違いと思い、市委員会に電話したところ、今訂正に廻つている旨の返事であつたことがうかがわれ、これも前認定と一致するところである。もつとも右乙第十号証の四中のその余の部分及び証人橋村の当裁判所における供述は全体として記憶が薄く右認定に反する部分は採用しない。

成立に争ない乙第十号証の二及び証人豊田玖二夫の証言によれば花暮投票所(消防署庁舎)の責任者となつた豊田が当日投票所の準備のため少し早目に食事に帰宅したがまだ食事の用意ができていなかつたので消防署に赴いたところ、署員の者が「これはひどい」といつて松崎の氏名等が抹消されている掲示を指摘したので、そのあやまりなることを発見してすぐ自宅に戻りこれを市委員会に電話で知らせ、再び掲示場に行き、しばらくして鈴木事務局長らが訂正に来たことが認められこれまた前認定と符合する。

一方証人宮沢金吉の証言によれば宮沢は渡船場で約十分待ち合せた後午後の第一便で城カ島に渡り漁業協同組合前まで行つたが、同所に掲示が見当らぬのですぐ引返し渡船で三崎に帰り再び市役所に引き返したことは明らかであるが、その前後の時間は渡船の発着時間が必ずしも明白でないため(証人池田サチ子は正午前後ごろは大体二十五分間隔であるが乗客の多少により遅速があるといい、証人浜田一雄は十五分間隔が通常であるという)これを推算し難いが、船の片道所要時間四分(往復八分)なることは前記のとおりで、三崎での待ち合せ時間十分、城カ島岸壁から漁業協同組合まで往復六分(乙第三号証による)三崎渡船場から市役所まで五分(証人宮沢の証言)であるから、城カ島での船の待ち合せ時間にいくらか余裕を見ても同人が市役所に帰着したのは十二時四十分ごろとみるのが相当であり、その後間もなく鈴木事務局長らが帰着したこと証人宮沢の証言により明らかであるから、この点でもおうむね前記認定と一致する。同証人が市役所帰着の時刻を十二時二十分ごろとする点は採用しない。

成立に争ない乙第十号証の三及び証人川嶋安太郎の証言によれば同人は当日十一時二、三十分ごろ市委員会に行き約三十分くらいしたころ原告が抗議に来たとあり、この部分も前認定に一致するものである。

以上のほか日の出掲示場における抹消の時刻につき証人木村信義は十一時二十分ごろこれを発見したといい、乙第十号証の十では十一時ちよつとすぎとし、証人松崎長司は原告から日の出の掲示を見るようにいわれたのが十一時十五分か二十分ごろといい、証人池田仙一は十一時二十五分ごろ木村に抹消を指摘されたといい原告本人は木村信義からの電話連絡があつたのは十一時すぎごろ、自身見に行つたのは十一時十五分ごろと供述しているが、いずれも前記認定に供した証拠及びその認定の理由にてらして採用し難い。その他右認定に反する証拠は採用しない。

(五)  これを要するに花暮の掲示があやまつて抹消されていたのはおよそ十一時四十分ごろから十二時十三分ごろまで約三十三分間、日の出の掲示のそれはおよそ十一時四十二、三分ごろから十二時二、三分ごろまで約二十分間であると認める。

四、日の出の掲示の訂正の効果及び再度の訂正について。

(一)  原告はこれらの掲示は抹消の後いつたん訂正されたが、その訂正の仕方が悪く、折柄の強風にあおられて大半ははがれてしまい、特に日の出の掲示場においてはさきのあやまりのまま翌選挙当日の正午ごろまでおかれたと主張するが、日の出以外すなわち花暮についてはかような事実のあつたことはこれを認めるべきなんらの証拠もなく、前記鈴木事務局長らの訂正の後はそのままの状態を維持したものと認めるべきこと、現に存する成立に争ない乙第七号証の一に徴しても明らかである。

(二)  よつて日の出の場合について検討する。成立に争ない乙第十号証の八、証人鈴木益司の証言によれば、鈴木益司は二月十日鈴木事務局長から渡された模造紙半截大の用紙に候補者四人の氏名等を書き岩野を朱抹したものを持参して同掲示場にいたり、もつて来た大和のりで紙の四周およそ三糎ばかりに糊をつけてこれを当初の掲示の上にはりつけたと供述し、証人鈴木慶三もまた当日鈴木益司を日の出にやるには糊の外には画鋲などは持たせなかつたと供述するに対し、証人木村信義の供述及び右乙第十号証の十中の供述記載は、木村は右鈴木が訂正に来たとき風が強くて作業がやりにくそうであつたのでこれを手伝つたがその際鈴木は糊ではなく画鋲で八ケ所くらいを押してはつたものであり、その時鈴木の自転車の荷掛の上においた画鋲箱が下におちたため拾つてやつた記憶があるとしており、全く対立している。

ところで成立に争ない乙第七号証の二は三崎警察署において事件捜査の際日の出の掲示場から押収した当時の掲示であるが、これは現在破損が甚しく四周も完全ではないが、もともとこれは当初の一回目の掲示の上に二回目の紙を貼り、その二回目の紙を除いて三回目の掲示を糊り付けしてはつたものであるが、現在二回目の紙はほとんど全く残つていないため、これによつて直接鈴木益司の貼付した状況を検するに由ないが、この三回目の紙の上から下に貫通して左辺に上から三箇、下辺から十糎位の所に一箇それぞれ画鋲の針穴とみられる穴があり(これは証人鈴木慶三の証言によれば同人が三回目に張つたとき糊付のほかあり合せの画鋲を念のため押したものと認められる)、右のほか一回目の紙には上辺中央と右隅の二カ所に三回目の紙にはない針穴があるほか他の部分にはこのような痕跡を発見し得ず、市委員会が最初掲示としてはつたときは全面に糊ではり画鋲を用いたものでないことは証人鈴木慶三の証言からうかがい得るからこれら一回目の紙と見られるものにある画鋲のあとは二回目のとき押されたものと推認するほかなく、これらの事実によれば鈴木益司が第二回目の掲示をはるのに全く画鋲を用いなかつたとするのは真実に反するとともに、全部を画鋲のみで止めたとするのも事実に相違するものといわざるを得ず、結局これらの事情を綜合して二回目の掲示はいちおう糊ではつたがさらに同人は念のためその掲示板にありあわせの古い画鋲を二三カ所押したものと推認するのを相当とする。

(三)  証人永田克従は二月十一日午前九時ごろ日の出掲示場の掲示は左上辺がはがれて垂れ下がり訂正の箇所がかくれて前日の抹消のあやまりのままの状態をあらわしていたのを発見したと供述するが、証人鈴木慶三の証言によれば同日昼すぎ松崎候補の選挙事務所からの連絡で鈴木事務局長はこれを知り前日鈴木益司のはつたものを訂正すべく、候補者四名の氏名等を書き岩野を朱抹したものを持つて同所に赴いたが、風は西から吹いており、前日鈴木益司のはつた掲示の下の方がはがれて風のたびにあおられて当初のまちがつて消した掲示がちらつき、風が止めばまたもとどおりになるという状況であつた、そして同人はこれをはぎとつて最初の掲示の上に持参の右掲示を全面に糊をつけてはり、念のため同掲示板にあつた画鋲を数ケ所これに押したと供述している。前日の二回目の紙のはり方は前認定のとおりであり、紙が既設の掲示板からはみ出していたこと、風は西風で掲示の向つて左方から吹いていたこと等をあわせてみるとその状況は証人鈴木慶三の述べるところが真実にそうものと考えられる。証人遠藤桂次の証言によれば同人は十日の夕方日の出掲示の下の方五分ないし一寸ほどがはがれているのを見たことを認め得べく、右認定をたしかめるに足りる。この点につき永田は右状態を発見したあとすぐ松崎事務所に連絡したが、証人木村信義は右掲示はそのころ風のたびにひらひらとまくれて前の抹消が見えかくれする程度でありそれでも訂正したことは分るものであつたとし、同人はこれを大して問題にせず、前日の時とは異なり松崎事務所にはなんら連絡しなかつたと供述し、その発見が午前九時ごろであるのに市委員会が再度これを訂正したのは十一日の昼すぎであり、選挙当日市委員会の多忙はともかく全体としてその前日の抹消のまちがい訂正の際のあわただしい動きにくらべて緩慢であること等もあわせてみると、右掲示のはがれた状態は証人永田のいうほどひどいものではなかつたこれを裏書きするものといえよう。

(四)  これを要するに日の出掲示場における掲示の抹消の訂正については、強風のため紙がその左下方において一部はがれて風の吹くたびにまくれ上り、その下の抹消の部分が見えかくれする状態で選挙当日の早朝から昼ごろまで継続したことは明らかであるが、これは常時継続して抹消のあやまりが露出しているわけでなく、それ自体事の性質上人の注意を引くはずであり、注意して見ればその正しく訂正されたところは容易に判明するものというべく、これをもつて右前日の訂正がなんの効果もなかつたとすることはできない。

第三、選挙の結果に異動を及ぼすおそれの有無。

一、以上認定の第二の三の事実すなわち市委員会が辞退した候補者の氏名を掲示中から抹消せずあやまつて他の候補者の氏名等を抹消し一定時間その掲示を続けたことはそれ自体選挙の管理執行に関する規定の違反であることは明らかである。もともと公職の選挙において選挙の管理執行にあたる選挙管理委員会が公職選挙法第百七十三条、第百七十四条にもとずきなすべき候補者の氏名党派別等の掲示については、法が公衆の見易き場所を択びその氏名等が選挙人に周知されるようにつとめることを要求し、その期間、箇数、掲記の順序等まで規定しているところからすれば、選挙において選挙管理委員会のなすべき事務のうち重要なものの一つであり、選挙人がこの掲示に寄せる信頼と期待もまた多大であることを了解するに足り、その掲示のあやまちはその影響するところ軽からぬものがあることは一般にこれを肯認しなければならない。しかし本件における程度の掲示のあやまりがはたして選挙の結果に異動を及ぼすおそれがあるものといい得るかどうかについては、さらに諸般の事情を検討してこれを決しなければならない。

二、(一) 成立に争ない乙第二号証に検証の結果をあわせれば、花暮掲示場は同市三崎町南端漁港を背に三崎警察署と三浦市消防署の中間に幅約六間の道路に面してたてられた掲示板であり、附近には倉庫店舖住宅等があり、その交通量も相当と認められるが、同所は特に朝夕の通行が多く昼頃は比較的少いことは証人橋村勝次郎の証言からうかがい得る。附近の交通量は当裁判所の検証(昭和三十年十月二十五日施行)の際試みたところにより十一時から十一時五分までのものを前記時間(三十三分間)に換算すれば成人八十四人余、自転車五十八台余その他となり、右乙第二号証によれば県委員会の調査(昭和三十年五月三十日施行)では百六十四人余(十一時から十三時までの時間割)となることが認められるが、これらはいずれも本件の当時と異なる日時の調査でこれをもつて当時の交通量を推測するのは妥当ではないが、いちおうの参考とはなるものと解する。また日の出掲示場は幅約三間の道路の北西側、青柳旅館を背にして立てられた既設の掲示板であり、附近は食料品店、薬局、衣料品店等が並び、その交通量も相当で、特に主婦の往来が多いことが認められ、その交通量については当裁判所の調査では二十分間で成人六十四人、自転車二十四台その他となり、県委員会の調査では百四人余となること前同様であるが、これら数字のもつ意味もまた前同様である。証人木村信義及び原告本人は右二月十日はこの地方は稲荷講の前日でとくに在方からの買出客が多いと供述するが、証人遠藤桂次の証言によればその買出客の程度も特に平日と区別すべきほどのものともいえないことがうかがわれ、当日特別に人出が多かつたとする特段の事情とするには足りない。

(二) 本件選挙の選挙人の総数が二〇、五七七、投票数一六、二五八であることは当事者間に争ないからその棄権率は二〇、九%であるところ、昭和二十七年十月施行の三崎町長選挙の棄権率が二一、六%であつたことは原告の明らかに争わないところであるから、今回の選挙においては棄権率はむしろ前回にくらべて減少しており、他に特段の事情のない限り松崎候補が辞退したものと信じて棄権者がそれだけ増加したと信ずべき根拠はない。もつとも本件選挙における花暮、日の出両投票所の有権者総数は一、五一三、投票数一、一三六であることまた原告の明らかに争わないものであるところその棄権率は約二五%となり全区域のそれより高いが、これ以前の選挙における右両投票所の棄権率についてはこれを知り得ないから、これをもつて松崎候補が辞退したものと信じて棄権者が増加したことの証とはし難い。

(三) 候補者松崎定治がこの選挙の約二年前まで旧三崎町長であつて、そのころ衆議院議員に立候補するため辞任したものであることは当事者間に争ないが、川崎候補はかつて他の者と町長を争つて落選したことがあり大方の同情をひく面があり、松崎川崎ともに無所属とはいいながら保守的傾向にあり、比較的革新系と目される佐藤候補及び共産党の岩野候補とするどく対立し、いずれも当初から有力視されていたことは証人石渡徳太郎同石渡秀吉の証言によりこれをうかがい得るところであり、この点では氏名誤抹の事実がなければ当然松崎候補が当選すべかりしものと解すべきかくべつの事情はない。

(四) 成立に争ない乙第一号証に証人石渡秀吉の証言をあわせれば、一方共産党の岩野候補は早くから立候補を辞退の上佐藤候補を応援すべき旨を言明しており、二月六日には「岩野市長候補の辞退について声明する」旨のビラ(乙第一号証)を市内約三千世帯に配付しており、前記のとおり正式に辞退届を提出するまで依然辞退の旨を声明しながら街頭演説等をつづけていたこと、成立に争ない乙第九号証の一、二によれば三浦市内で発行される三崎港報の二月七日付新聞及び二月十日付毎日新聞の朝刊神奈川版にはいずれも岩野候補辞退の記事が掲載されるとともに岩野候補の票が他の三候補のいずれに帰するかが話題とされていること(三崎港報の市内購読数は二四〇〇部、毎日新聞のそれは二二〇〇部であること原告の明らかに争わないところである)、証人永田克従、同豊田玖二夫、同橋村勝次郎、同森山房吉、同遠藤桂次、同小泉道雄の各証言によればこれらの証人らはいずれも岩野候補が辞退したことは十日の昼ごろまでに、おそくも同日夕刻ごろまでに、あるいは本人直接、あるいは通りがかりの人から、あるいはバスの中でというようにきいて知つていることをそれぞれ認めるべく、これらの事実をあわせれば、当時三浦市内大多数の市民は少くとも選挙の前日たる二月十日中には立候補を辞退したのは共産党の岩野候補であることを了解していたものと認めるのを相当とする。もつとも証人石渡徳太郎の証言によれば松崎が立候補したとき同じ保守派から二人立つのはまずいということから川崎に当選を得しめるため右石渡外二名の有志がひそかに松崎に対して辞退をすすめたことをうかがい得るが、証人森山房吉同小泉道雄の証言によるも新聞記者として選挙につき取材活動に従事していた同人らにもこのことは探知されなかつたことが明らかであり、当裁判所の取調べた証人中これを知る者がほとんどないことと相まつて、この話は当事者以外にはほとんど伝えられなかつたものと認めるべく、松崎候補の辞任があり得べきこととして一般に受け入れられるべき情勢があつたものとはいい難い。むしろひとたび掲示があやまつて抹消されるやこれを見る者にして即座にこれをあやしみそのあやまりであることを思い知る者二三に止まらずそのうちの何人かはその旨松崎の事務所や市委員会に指摘していること前記のとおりであることはこの間の消息を物語るものというべきである。

(五) 証人松井忠治、同出口栄一の各証言及び原告本人尋問の結果によれば、他方松崎候補は立候補以来活溌な選挙運動を行い、市内に五百枚のポスターを配付するとともに連日街頭演説及び個人演説会等に従事し、あやまつて掲示の抹消された二月十日も早朝から同候補は運動員数名とともに小型トラツクで街頭に出で、三浦市のうち三戸、矢作、和田、高円坊、浦町、毘沙門、宮川等在方を順次街頭演説して午后二時近くには旧三崎町内に入り、同夜は近くの新生座で個人演説会を開いていることが認められるから、松崎候補が辞退したものでないことは相当広範囲に徹底していたものと推認し得る。

(六) しかして選挙の結果総投票数一六、二五八、有効投票一六、一七八、このうち当選人川崎候補の得票数は六、五六九、次点者松崎候補のそれは五、六五六、三位佐藤候補のそれは三、九五三で、当選者と落選者との得票差は九一三以上に及ぶことは当事者間に争ないところである。

三、以上の事実を綜合すれば、本件において市委員会のした掲示のあやまりは市内十五カ所のうちわずか二カ所であり、その抹消のあやまりが呈示されていた時間は選挙前日の昼ごろ二十分間および三十三分間であり、その間これを現認しもしくは現認した者から伝聞した者も少しとしないであろうが、当時一般にそのあやまつて抹消されたところが真実と信ぜられるような情勢はなく、辞退したのは別の候補者であることは広く知られており、抹消にかかる候補者は依然として最後まで自己の選挙運動を継続していたのであつて、しかもその掲示のあやまりは間もなく訂正せられて当日の午后より選挙当日まで掲出せられていたから投票当日まで松崎候補の辞退の有無について疑惑を残した如き事情はなかつたものというべく、これに当落の得票差が九百以上であることと相まつて、本件掲示のあやまりがなかつたとすれば候補者の当落の帰趨につき現実に生じたところと異なつた結果を生ずる可能性があつたものとはいい得ないとしなければならない。すなわち本件において市委員会の候補者氏名等の掲示のあやまりは選挙の結果に異動を及ぼすおそれあるものというを得ないものと判断するのを相当とする。

第四、原告のその余の主張について

一、原告はなお掲示のあやまりを訂正するにつき市委員会は別途の方法をもつてこれを選挙人に徹底せしめるべきであり、この点においても選挙の管理執行について違法あるものと主張するが、市委員会が原告より抗議を受けた際市民への徹底を約したかどうかは別として、本件のような市内二カ所の掲示における短時間の誤記でそれが選挙の結果に異動を及ぼすおそれあるといい得ないこと前記のとおりである本件においては、前記の程度の訂正をした以上、それ以外にとくに宣伝車その他の方法をもつて選挙人一般への徹底を期しなかつたとしても、これをもつて選挙の管理執行につき違法があるとするにはあたらないというべきである。

二、また原告はそもそも掲示をするのに氏名等記載の紙幅より小さい既設の掲示板を用い、また他の板壁や板塀にそのまま掲示の紙を貼付することの違法を主張するが、本件におけるかかる方法による掲示が必ずしも妥当なものとし得ないにしても、これによつても法の定める掲示の目的を到達し得なかつたとは解せられず、これをもつて違法な措置と断ずるのは相当でない。

第五、結論

しからば本件選挙が無効であるとする原告の主張はその理由がなく、これと同一の結論によつて原告の異議申立を却下した市委員会の決定ならびに原告の訴願を棄却した被告の裁決はいずれも相当であつて、これを取り消すべき理由はないから、原告の本訴請求は失当としてこれを棄却すべく、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八十九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 藤江忠二郎 原宸 浅沼武)

裁決書

訴願人 加藤亀吉

五十三才

右訴願人代理人弁護士 佐々木文一

右訴願人から昭和三十年二月十一日執行の三浦市長選挙における選挙の効力に関する異議申立事件につき昭和三十年三月十五日三浦市選挙管理委員会がした決定に対し適法な訴願が提起されたので、当委員会は、審査の上次のとおり裁決する。

主文

本件訴願は、棄却する。

理由

一 訴願の趣旨及び理由

本件訴願の趣旨は、昭和三十年二月十一日執行の三浦市長選挙における選挙の効力に関し、同年三月十五日三浦市選挙管理委員会(以下市委員会という)のした決定は破棄する。同選挙を無効とする。との裁決を求めるというのであつて、その理由として

(一) 訴願人及び訴願外須田清は同年二月十四日右選挙の効力に関し、市委員会に対し、異議の申立をしたところ同委員会は、同年三月十五日訴願人等の右申立を棄却する旨の決定をし、右決定は三月十五日訴願人等に送達せられた。

(二) しかしながら右決定は左記理由により不当であり承服できない。即ち

(イ) 同選挙における市長候補者は佐藤準一郎、川崎喜太郎、岩野益雄及び松崎定治の四人であり、市委員会は同年二月五日公職選挙法第百七十三条等の規定により右候補者四人の氏名及び所属党派別を同市内投票区十五ケ所に各掲出したのであるが、選挙の結果候補者川崎喜太郎が当選人、同松崎定治が次点、同佐藤準一郎が第三位となり、候補者岩野益雄は四月十日候補者たることを辞退したものであるところ、市委員会は右岩野の辞退について、即日前同法条による氏名等の掲示(以下「氏名掲示」という)を抹消するにあたり、誤つて松崎定治の氏名掲示を抹消した。

(ロ) 誤つて抹消して掲出せられていた時間は、同日午前十一時頃から午後一時頃までである。

(ハ) 誤つて抹消した場所及び抹消箇所数は三浦市内十五ケ所の氏名掲示中旧三崎町内の七ケ所で、その内顕著なるものは、日ノ出、花暮、諏訪の三ケ所である。

(ニ) 誤つて抹消した箇所を訂正するに完全な方法をとらず誤つて抹消した上に松崎候補の氏名を記した紙片を画鋲で四すみを止めたのみだつたため、訂正掲示は、強風にあふられ、大半取外れ、訂正の目的を達し難い程度となり、日ノ出の氏名掲示の如きは、翌十一日(選挙当日)正午頃まで抹消された状態の掲示が表示されていたものである。

(ホ) 右日ノ出、花暮、諏訪は最も人出の多い場所であり、長時間にわたる右の誤つた氏名掲示による選挙人への影響は測り知れないものがある。

(ヘ) この選挙において次点となつた松崎定治は二年前まで三崎町長であり、市制施行の功労者で信望篤い有力者であつて選挙が右の如き重大な瑕疵なく厳正公平に行われるならば当選人となる資格を具備しているものである。

(三) 以上の瑕疵は選挙の結果に異動を及ぼすことが明かであり異議申立は理由あるにかかわらず原決定は「誤つて抹消した箇所は二ケ所であり、三十分位の短時間である」といい、その他数字を羅列して牽強附会の議論をもつて却下したものであるから破棄せらるべきものであるというのである。

二 市委員会の弁明の趣旨

右に関し市委員会は

(一) 誤つて抹消した箇所は日ノ出、花暮の二ケ所であり諏訪は未だ抹消されていなかつたが氏名掲示の一部が破損していたため全部はり替えたものである。

(二) 候補者松崎定治は昭和二十七年九月衆議院議員選挙に立候補のため三崎町長を辞職したので当時町村合併については、何らの動きはなく、町村合併促進法が施行されたのは昭和二十八年十月で、市制施行の話題は翌二十九年四月頃から起きたもので同候補者が市制施行に何の関係もないことは明白である。

(三) 氏名掲示の訂正にあたつて氏名等を記入した紙片の四すみを画鋲で止めた等の記述は全く虚構である。

と弁明している。

三 裁決の理由

訴願人等主張事実中市委員会において立候補を辞退した候補者岩野益雄の氏名掲示を抹消すべきところ誤つて一部掲示場につき辞退しない候補者松崎定治の氏名掲示を抹消した事実については争いのないところであつて、この事実が選挙の規定に違反することは明白であるが、更に果して選挙の結果に異動を及ぼす程度の影響があつたかどうかについては

(1) 誤つて抹消されていた時間の長短

(2) 誤つて抹消された箇所数

(3) 誤つて抹消されていた時間中にその掲示をみた選挙人数

(4) 誤つて抹消されている候補者松崎定治を真実辞退したものと誤認せしめるような客観的状況の有無

(5) 投票の状況如何

等を調査し、それらの諸条件を総合し選挙の結果に異動を及ぼす虞れがあるかどうかを判定しなければならない。

右について当委員会が調査したところによれば、

(1)については、当委員会において聴取した各関係者の供述等によるとその状況は概ね次のとおりである。

即ち

市長候補者岩野益雄が運動員石渡秀吉をもつて立候補辞退の届出を提出し、市委員会が届出を受理したのは二月十日午前十一時七分で、この時間は、届出書欄外の届出受理日時の記載並びに市委員会事務局長鈴木慶三の供述により明かである。届出受理後同局長よりさきに交付した街頭演説用標旗及び選挙運動員用腕章の返還を求めたところ石渡は一旦選挙事務所に帰り探したが腕章は交付を受けた枚数だけ見当らないので約二十分後標旗及び腕章数枚を市委員会に持参したと供述している。従つて同人が市委員会に到着した時刻は十一時三十分頃より以前ではなかつたと認められる。当時市委員会の専任職員は前記鈴木事務局長外一名臨時雇傭者三人で選挙の日の前日のことであり専任職員は投票準備のため多忙を極めていたため鈴木事務局長は右石渡より標旗等を受け取るや直ちに労務者宮沢金吉を呼び三浦市三崎町内七箇所の岩野益雄の氏名掲示を抹消すべきことを命じた。宮沢は、各候補の氏名をようやく判読できる程度であり、鈴木事務局長から抹消の手本を示されたが、氏名を抹消の上余白に書く「辞退」の字を知らなかつたので、鈴木事務局長はこれを別に紙片に書きなお抹消する掲示場の所在地を書き添え宮沢に持たせた。同人は直ちに赤インクと筆を持ち自転車で市役所を出発し、小公園わきをすぎ、消防署隣りの氏名掲示場に至りここで岩野益雄を抹消すべきところ誤つて松崎定治を抹消したものである。次いで日ノ出掲示場においても同様誤つて抹消しているのであるが、同人の供述によれば同人はその後城ケ島の氏名掲示を抹消するため渡船場に行つたが渡船場に到着したとき渡船は出発した後で間もなく渡船が城ケ島と三崎との中間辺を三崎に向つて来るのが見え渡船が三崎の桟橋に着くか着かぬに正午のサイレンが鳴つたので渡船の乗組員が昼食するのを待つて午後の第一便で城ケ島に渡つている。同渡船はほぼ正確に十分毎に出航していて片道の航行が約四分であることは当委員会の調査によつても明かである。右の時間関係からすれば宮沢が渡船場に到着したのは午前十一時五十五、六分から七、八分までの間ということになる。しかして当委員会の実測によれば、自転車で市役所から渡船場に来るまでは、花暮掲示場まで二分、更に日の出掲示場まで三分、更に渡船場まで二分が抹消時間を含めた所要時間であるから之から推算すれば宮沢が日ノ出の抹消をしたのが早くても午前十一時五十三、四分頃、花暮を抹消したのが十一時五十分頃ということができる。

一方花暮掲示場における氏名掲示の誤抹については午前十一時から正午まで立番した同市消防署の和田松次が自己の立番中赤インクと筆とを持つた男が掲示場に来たことを確認しており、なお、市の戸籍主任豊田玖二男の供述によれば同人が同日消防署向い側の自宅に昼食に帰宅したところ通常正午のサイレンで昼食するのが例であつたが、同日はたまたま消防署に設けられる投票所の準備があつたため平常より幾分早めに帰つたためまだ昼食の準備ができていなかつたので投票所となる消防署まで行つてみたところ同署署員に指摘され誤抹の事実を知り直ちに自宅へ戻り市役所に連絡し、再び消防署前に来たところしばらくして鈴木事務局長が三輪車で訂正に来たということであつて前記認定と時間的に符合している。更に同市消防署副署長橋村勝次郎の供述によると同人が十二時まで同署二階で執務し、正午のサイレンと共に一階に降り昼食にかかつたところ署員から氏名掲示誤抹をきき直ちに同委員会に連絡したところすでに訂正のため鈴木事務局長が出発した旨の回答があつたとのことであり、誤抹の時刻が正午に近接していたことを裏付けるものである。

日ノ出の氏名掲示抹消の時間に関する木村信義の供述は、不正確なる記憶に基くものであり、前記岩野の届出時間並びに石渡の供述に徴し、採用することができない。

次に誤抹訂正の時間につき考察するに、本件誤抹の事実は日ノ出掲示場の正面の食料品販売店主木村信義が同掲示場で宮沢が誤抹する現場を発見しこれを松崎事務所に通報し松崎事務所より電話並びに口頭の申入れがあり、判明したものであるが、鈴木事務局長は直ちに市総務課職員鈴木益司に予備としてあつた氏名掲示札を渡し、日の出の訂正方を命じ、鈴木は自転車で訂正に行つている。鈴木は日ノ出掲示場を訂正した後仲町から小公園を経て市役所に帰つたが、帰庁後直ちに鈴木事務局長とともに花暮その他の掲示の抹消について確認すべく市水道課の三輪車で出発しているのである。一方宮沢金吉は午後の第一便の渡船で城ケ島に渡り指示されたとおり同処漁業協同組合前に行つて見たが、同処には氏名掲示が見当らないのですぐ渡船場にひきかえし次の船で帰り、そのまま昼食のためと城ケ島の氏名掲示が見当らないことを報告するため市役所に帰つたところ使丁室において自分の抹消が誤つたことをきき鈴木事務局長に謝罪に行こうとしたとき鈴木事務局長が使丁室に入つてきて「全部抹消してきたのでもう行かなくてよい」と言つたという。渡船場において宮沢が船員の昼食のため待つた時間が約十分とみられるので城ケ島に到着したのは零時十五分頃で漁業協同組合までの往復所要時間は当委員会の実測により六分であるから宮沢は次の零時二十五分頃城ケ島発の渡船に乗船し、同三十分頃三崎に到着している筈である。渡船場から市役所使丁室までは、実測により六分を要するところからみて、同人が市役所の使丁室に入つたのは零時四十分より多少前であると見て差し支えない。而して鈴木事務局長は市水道課の三輪車で市役所を出発し先ず花暮を訂正し引き続き城ケ島、日ノ出を除き諏訪を最後に他の五ケ所の氏名掲示を見廻つて市役所に到着しているのであるが、その到着が宮沢のそれと一足違いとなつているのであつて零時四十分頃と推定せられるが、同一の三輪車により所要時間を調査した結果市役所より花暮まで二分、全部を通じ三十分であるところからすれば鈴木事務局長が市役所を出発した時刻は零時十分頃とみられ、従つて花暮を訂正した時刻は零時十二分頃と推定するのが相当である。この点前記豊田の供述と全く一致するところである。日ノ出掲示場の訂正は、これより先前述の如く鈴木益司が行つており同人の帰着を待つて共に前記花暮その他の巡回をしたものであるが、日ノ出より小公園経由市役所到着までの自転車による所要時間は調査によれば七分であり、鈴木事務局長の市役所出発が零時十分頃であるから鈴木益司が日ノ出の訂正をした時間は零時三分頃となる。この点は木村信義の供述中(貼り終えた頃サイレンを聞いた)とあるのと全く符合する所でありこの時刻は略確実といえる。

以上により日ノ出において誤抹されていた時間は、午前十一時五十三分頃から午後零時三分頃までの約十分間、花暮のそれは十一時五十分頃から零時十二分頃までの二十一、二分と断ずることができる。右認定に反する訴願人等の供述は、右認定の根拠に比し極めて不正確であり到底右認定を覆すに足りない。

(2)については、訴願人は誤つて抹消した箇所は七箇所でそのうち顕著なのは日ノ出、花暮、諏訪の三箇所であると主張するが、これは訴願人もその供述において確認しているのは日ノ出のみであり花暮については、単なる伝聞にすぎず、他の箇所については、何ら確証はないといつているのである。七箇所を誤つて抹消したとする根拠は鈴木事務局長が訂正のため用紙七枚を持つて市役所を出た旨伝聞したというにあるが、市委員会は弁明書において七枚用意した事実を認め、誤抹消の箇所が何ケ所か分らず、もし全部を誤つて抹消していたときの用意として持つたのであり、責任ある市委員会として当然の措置であるとしている。右については、宮沢は前記のとおり花暮、日ノ出の掲示を抹消したのみであり城ケ島については、氏名掲示が見つからなかつたので抹消しなかつたといつている。日ノ出、花暮以外の掲示場については鈴木事務局長とともに各氏名掲示場を廻つた鈴木益司及び城ケ島小学校に設けられた投票所の入口の氏名掲示を別に抹消に行つた浜田一雄の供述によつても他の掲示には誤抹はなく正規に岩野益雄の氏名掲示が抹消されたことは明白である。

以上により日の出花暮を除く諏訪外四ケ所の氏名掲示については誤つて抹消された事実は全くなく訴願人の主張は何等確実な根拠に基かずしてなされたもので明かに失当である。

なお訴願人は日ノ出掲示場の訂正のためはりつけた氏名掲示が鋲で四すみを止めたのみで翌日風のため大半がはがれ訂正の効果がない状況であつたと主張するが鈴木事務局長及び訂正に行つた鈴木益司は前の誤つて抹消されたものと全く同じ大きさの氏名掲示札を各四辺に三糎程のり付けをし、ぴつたり重ねてはり付けたと供述し、翌日風のためはがれたのは掲示板からはみ出た下方が風にあふられてはがれ風の度に上にまくれ上る程度で訂正された氏名掲示は十分見得る状況にあつたものとしている。その後再度鈴木事務局長が氏名掲示を全部はりかえたときは氏名掲示板の裏全面にはけでのり付けしてはり、なお掲示板に残つていた鋲を念のため三四個拾いあつめその上に押したものであると弁明しており、領置に係る同処の氏名掲示(三崎警察署提示)が三回目即ち最後に鈴木事務局長がはつた氏名掲示の左辺に三箇下辺に二箇の画鋲の痕跡が認められ全体に一回目と密着している所よりして三回目の氏名掲示については同人等弁明の通りと認められるが二回目即ち鈴木益司がはつた分については必ずしも明瞭ではない。前記領置物件を一見するに二回目の紙の残部と認められるもので当初の糊付けの位置の儘と見られるものがなく更に一回目の紙(最初の分)の上辺中央部並右上隅に画鋲の針穴と見られるものが一箇宛あり之に対応する三回目の部分にその痕跡が見当らないので二回目の紙は画鋲を用いたものの如く見られるが詳に検するに一回目の紙は四周必ずしも完全でないが前記中央部上辺右上隅の二箇所及鈴木事務局長が最後に押したと見られる五箇所の針穴を除き其の他の部分に画鋲の痕跡はない。そうすると若し二回目の紙を糊付けしなかつたとすれば模造紙半截の相当大きな紙を上辺中央部及右上隅の二箇所を画鋲で留めた丈ということになるが斯様なことは選挙管理委員会の職員が重要な氏名掲示を而も誤抹訂正の際はり替えるとしては到底考えられない所である。そこで結局二回目の紙は鈴木益司供述の如く一応四周を糊付けしたものと認める他なく上辺中央部及右上隅の画鋲二箇は右供述に反し有合せのものを糊付けの上に更に念の為押したものと見るべく、これが糊付不完全により強風の為一部はがれたものと考えられるが、上辺は右の如く糊付けの外画鋲で留めてあつたと認められるのと風が紙の左方から吹いていたこと及紙の下部が掲示板からはみ出していたことを考え合せるとはがれたのは鈴木事務局長の供述の如く下方か又は左方の一部と認められ之が風にあふられて下の誤つて抹消した部分が風の度に一部露呈したとしても上に訂正の紙札がある以上訂正の効果がなかつたとはいい得ない。此の点に関し木村信義、永田克従等は鋲止めであり掲示札の上辺がはがれたれ下つていたと供述するが右証拠物の状況等に照し措信することができない。

(3)については

当委員会の調査によれば花暮掲示場は三崎警察署及び三浦市消防署の中間に幅員三十六尺の道路に面し路端より約三尺引込んで立てられており必ずしも人目につき易い状況ではなく右道路両側は商店、事務所、倉庫、住宅等雑然と立並び交通は自動車、自転車等の通行に比し歩行者は少く、当委員会の掲示場見分中も特にこれに注意を払う通行者は見当らない状況であつた。

その際における選挙人と推定される通行者数は、午前十一時四十五分から午後零時十五分まで九十二人であり(午前十一時四十五分から午後一時迄三百四十五人を時間割したもの)、前記橋村勝次郎の供述によれば、同処は朝夕の通行多く昼前後は割合少いところで二月十日のその時刻には人通りは案外少かつたとのことであり、氏名掲示誤抹の時刻に多数の通行者があつたとは認められない。

日ノ出掲示場は、日ノ出七〇番地青柳旅館前西方入舟町商店街に通ずる幅員約二十二尺の道路上の路端に設けられており、附近も商店が連たんしており主婦の通行が稍多い場所と認められるが、見分の結果前記と同時刻における選挙人と推定せられる通行者は、九十八人(午前十一時三十五分から午後一時まで四百十六人を時間割したもの)であり二月十日における通行は厳寒の候であり、昼食前後の点からしてこれより多かつたと推定せられる状況はない。従つて、これ又本件該当時における通行者が特に多数であつたと見ることはできない。

(4)については

候補者岩野益雄が立候補を辞退することは、すでに二月七日声明を発すると共に自ら街頭演説等においてもその旨言明しており、同候補の選挙事務所から約三千枚の活版刷りの辞退声明が各戸に配布され又同地において二千四百部の購読数を有する地方新聞三崎港報は、同日付紙面に同候補の写真入りの辞退声明記事を載せ、即日各購読者に配布しており、更に同町内に二千二百部の購読数を有する毎日新聞の二月十日付朝刊にも同記事が掲載されていたので、大多数の市民は岩野候補の辞退した二月十日正午前後には、同候補の辞退は既定の事実として承知していたと思われるのである。

一方松崎候補は、他の候補者川崎喜太郎、佐藤準一郎とともに有力な候補として宣伝されており、二月十日午前十一時五十分頃宮沢が花暮に氏名掲示抹消に行く除中花暮掲示場と二町と離れていない小公園附近で、同候補の街頭演説連呼が行われており、引続き同日夜附近の映画館新生座において個人演説会を開催し、又午後九時まで街頭連呼を行つていたものである。花暮の氏名掲示を誤つて抹消した当時証人橋村勝次郎等は、直ちに岩野候補との間違いであることを直観し、市委員会に連絡したもので、消防署内において松崎候補辞退を信じた者は一人もなく、松崎候補が辞退したのは本当かと思うより市委員会の失態が選挙の結果によつては重大化するのではないかを話題としていたといつており、誤抹をみた通行人も間違いだと言つていたし、一般に辞退したと思つた者はなかつたとしている。以上の状況よりすれば、松崎定治が辞退すると信ぜられるような状況は殆んどなかつたといわなければならない。

(5)については

氏名誤抹の行われた掲示場所を中心とする部落の投票状況は、左表のとおりである。

当日有権者   投票者 棄権者

日ノ出部落   九二〇   六九九 二二一

花暮 〃    五九三   四三七 一五六

計     一、五一三 一、一三六 三七七

先ず棄権者について検討するに、昭和二十七年十月施行の三崎町長選挙の棄権率は二一・六%であるのに対し、今次市長選挙のそれは二〇・九%となり、むしろ棄権率は減少しており松崎定治が辞退したと誤信して棄権した者が多数あるとは到底首肯し難いところである。

現に訴願人において右誤信の結果棄権したと主張する同町田中二二一二古沢秀吉すら調査の結果投票者である事実に徴し、誤信の結果棄権したと称する者があつても多くは実際において投票しているか乃至は他の理由による棄権者であろうと考えられる。

次に投票者一、一三六についてであるが川崎、佐藤両候補も松崎候補同様花暮地内に自宅、選挙事務所を有し、全く同一地盤としている点からしても仮に氏名誤抹がなかつたとしてもこの全部が松崎候補に投票したものとは到底考えられないところである。

これを要するに(1)誤抹掲出の時間は極めて短時間であり、(2)掲出場所は候補者松崎定治の自宅兼選挙事務所の直近及び隣接の二ケ所のみであり、(3)掲出時における同所の選挙人の通行量は特に多からず、(4)松崎定治が辞退すると信ぜられる様な状況は殆んどなく、(5)投票の状況にも特に異常は認められないのであつてこれらの状況を綜合判断するときは、本件の氏名誤抹により候補者松崎定治が立候補を辞退したと誤信した選挙人が多数あつたということは認められないところであり、仮にあつたとしても極めて少数であつたと推定するのが相当である。

然るに同選挙の結果は当選人川崎喜太郎の得票数六、五六九次点松崎定治の得票数五、六五六であつてその差は九百十三票である。

訴願人は、松崎候補は前町長で市制施行の功労者であり当然当選者たる資格を有したるに拘らず氏名掲示の誤抹により右九百余票の差を生じ次点となつたと主張しているのであるが、他の候補者についても川崎候補は曾て町長、県議を歴任、佐藤候補も町長の前歴を有するのであつて、経歴上特に優劣を論ずることはできないところであり、この場合経歴如何は判断の資料とはなし得ない。

結局前記の諸状況により判断するの外ないのであるが、これをいかなる角度から検討判断しても到底氏名掲示の誤抹のみにより右のような得票差を生じたものと認めることはできない。

選挙の規定に違反するとは、法の明文になくても選挙の公正な執行を阻害する事実があるときをも包含し、その事実のみをもつても選挙の無効を争う原因となることを免れないが、ただその事実の程度が選挙の結果に異動を及ぼす虞れがある場合に限り、当該選挙を無効とすべきであつて本件訴願についてみるとき、市委員会が辞退せざる候補者を抹消したことは明かに違法であり、なお文字もかろうじて判読し得る程度の労務者をして重要な事務を行わせた事実、又氏名掲示は通常板製をもつてし、もし紙をもつて作製したときは特別に掲示板を用意してはく離等のないよう措置すべきところ氏名掲示板より小さい既設の掲示板を使用し、又は民家の板べいに掲示する等これら氏名掲示の点のみについてみても市委員会の措置は入念且つ慎重な配慮がなされたとは言い難い。

しかしながらこれらの違法もしくは適切ならざる措置が選挙の結果に異動を及ぼすかどうかについては、如上累説の如く各般の状況を綜合して判断しなければならないところであつて本件氏名誤抹は前記の如く選挙の結果に異動を及ぼすものとは認め難いから訴願人の主張はこの点において当を失し、市委員会の決定は結局正当であり破棄すべき限りでない。

よつて主文のとおり裁決する

昭和三十年七月一日

神奈川県選挙管理委員会委員長 柳川澄

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